モロッコ「エレベーターの流儀」
June 7, 2018
翻訳者派遣会社が送る、世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ
未知を求めて世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ。今回はエレベーターでの一コマ。こんな小さな箱の中にも旅の思い出は詰まっているのです。
大阪の小さなビジネスホテルに宿泊した時のこと。
私が乗ったエレベーターに、映画「ビルマの竪琴」に出てくる僧侶のような、橙色と山吹色と黄土色の中間のような色の僧衣を来た男性が乗り込んで来た。「何階ですか」「今日は暑かったですね」などの、儀礼的な会話を交わした後、彼は私に尋ねた。
"Where are you from?"
国外でよく聞かれるこの英語フレーズ。正解は"I'm from Japan"であろう。ただし、そこが国外であれば...だ。国内で聞かれた場合は、何と答えたものか、しばし考えて"I'm from Tokyo."と言ってから、いやと思い直し"I'm living in Tokyo"と答えた。すると男性は慌てたように、謝ってきた。いわく「日本人とは思わなかった。だって日本人はそんな風に言わないから...」
なるほど、言われてみれば、日本人はエレベーターで見ず知らずの人と会話をしない。皆、足元に視線を落とすか、階数が表示されるデイスプレイを上目遣いに凝視するか、はたまた手元のスマホに意識を集中させるか...。互いの視線が交差するのを阻止すべく振る舞うことが、どうやら日本の「エレベーターの流儀」らしい。
しかし、これは世界標準とは言いがたい。例えば、私のTシャツ(中国で購入したパンダが太極拳をしているもの)を"nice shirts!"と褒めてみたり、現地の刺繍が入った帽子を「素敵な帽子だね、どこで買ったの?」と聞いてみたり...。様々な人(ただし日本人を除く)がいろいろな言葉をかけてくる。もちろん件のフレーズ"Where are you from?"から、話が広がることもある。
なかでも印象に残っているのは、モロッコの首都ラバトのホテルのエレベーターでの会話である。訪れたのは、ちょうどラマダン(断食月)のまっただ中。1カ月にわたり、ムスリム(イスラム教徒)は日が昇ってから沈むまでの間、一切飲食することができない。厳格な人は自分の唾を飲み込むことも避け、ペッと吐き出す。ムスリムではなく、かつ旅行者の私は無論、その限りではないのだが、皆が断食していると思うと、気が引けるし、第一、レストラン自体が閉まっているのが実態だ。観光客向けの一部のレストランは営業しているが、大人はぐったりと椅子に座ったまま。給仕などを行うのはもっぱら断食デビュー前の子どもたちという、"子どもレストラン状態"の店も多く、これまた気が引ける。つまるところ、日中は予め買っておいた食料をあまり人目につかないところでササッと食べるということになる。
さて、そんなラバトのエレベーターで乗り合わせた男性が、私の方を向いてニコッと笑った。手は自分の腕時計を指差している。「もうすぐだね」の言葉を聞くまでもなく、私もニコッと笑い返した。他に乗り合わせていた人たちも皆、自然と口角が上がる。もう少ししたら、日没直後の祈りを呼びかけるアザーンの朗々とした声が街中に響くだろう。「やっと温かい食べ物にありつける」。声にはならない想いを共有し、エレベーターの小さな箱の中で、皆が小さく笑みを交わす。
"Bye-bye"と手を振ってエレベータを降り、ホテルの外に出ると、ちょうどアザーンが流れて来た。重々しい調べのアザーンも今ばかりは心弾むメロディだ。街行く人たちの歩みも軽快な急ぎ足へと変わり、街はお祭りムードに包まれていった。