フランス・パリ「ノートルダム大聖堂に寄せて」(前編)
August 30, 2019
翻訳者派遣会社が送る、世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ
未知を求めて世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ。今回と次回は、2019年4月に発生したノートルダム大聖堂の大規模火災に衝撃を受けて蘇ったパリでの記憶をたどります。
パリのノートルダム大聖堂の尖塔が燃え落ちる衝撃の映像は、悲鳴に包まれ瞬く間に世界を駆け巡った。
アフガニスタンのバーミヤン石窟、シリアのパルミュラ遺跡の破壊に匹敵する威力に、私もまた言葉を失った。
今から30年近く前、パリは初めて降り立ったヨーロッパの地だった。空港からバス、地下鉄と乗り継ぎ、「サン・ミッシェル・ノートル・ダム駅」で初めて目にした"ヨーロッパの空"は今も忘れない。セーヌ川の先にはノートルダム大聖堂の尖塔が見え、すぐにでも駆け寄って塔に抱きつきたくなる気持ちを抑え、大聖堂を背にしてサン・ミッシェル大通りを南へと向かった。90年代初頭の当時は、まだネットもなく、安宿は足で探す時代。学生街が近いサン・ミッシェルエリアには安宿があるとの情報を頼りに、ホテルの看板を探して歩いた。目指すは"流れ星ホテル"、つまりは"星なし"の安宿だ。
見つけたのは、"Hotel Henri Ⅳ"。
「アンリ四世(オテル・アンリ・キャトル)」という安宿には似つかわしくない名前だが、実態は紛れもない"流れ星ホテル"だった。 夜、どこからともなく悲鳴が上がる(多分、酔っぱらって帰還した男が階段を踏み外したのだろう、おそろしく急な階段だったから)。共用トイレのカギは壊れ、開けたまま用を足している男はいる。朝は洗濯物を広げながら金切り声で歌う調子っぱずれの女の声で目が覚める...。 挙げ句の果てに、一緒に泊まった友人から「このホテル、この部屋、何かいる」発言まで飛び出した。「寝ている時に金縛りにあった、上から水滴がピチョンピチョンと垂れてきたんだよ」と、普段あまり物事に動じない友人が顔を蒼白にして訴えるのには、私もまいった。しかし、物価の高いパリでここより安い宿は見つかりそうにない。「今晩、私のベッドと変わってみる?」と提案するも「いやいい」と頑に拒む。遠慮しているのかと何度か勧めてみても、首を縦にふらない。
「違うベッドで寝て、また同じことが起きたら立ち直れない」
しばしの沈黙の後、ぼそっと友人は答えた。それまで内心は「気のせいでしょ」と高をくくっていた私も、「これはマジだ」と事態の深刻さを悟った。「やっぱりホテルを変えようか」と遅ればせながら提案するも、友人は「いい」と繰り返すだけ。覚悟を決めた、硬い表情の友人に、今日も帰りにノートルダム大聖堂でお祈りしようとしか言えなかった。
アンリ四世の遺体はフランス革命後に墓から暴かれ、頭部は切断され行方不明になっていると後で知った。その後、惨事に至らなかったのは「我らが貴婦人」(「ノートルダム」はフランス語で「我らが貴婦人」の意)」である聖母マリアのご加護があったからと信じたい。
ちなみに次にパリを訪れた時には、すでに"Hotel Henri Ⅳ"はなかった。星だけでなく、ついに建物も流れ灰燼に帰してしまったのか。また、アンリ四世と思われるミイラ化した頭部が発見され、DNA鑑定が行われたというニュースも聞こえてきた。科学の力で白黒つけるのは法医学者の役目だが、旅行者は記憶の靄がかかったおぼろげな輪郭をあえてはっきりさせようとはしない。空想旅行をすることで、旅の記憶はより質量を増していくのだ。