ギリシャ・クレタ島「白いベールと黒い魔女」
March 15, 2018
翻訳者派遣会社が送る、世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ
未知を求めて世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ。今回はギリシャ神話のミノタウロス(牛頭人身の怪物)が眠るクレタ島でのちょっとファンタジーな思い出です。
クレタ島と言えば、第一に思い浮かぶのは「ミノタウロスの迷宮」だろう。
ギリシャ神話によれば、迷宮に住む牛頭人身の怪物ミノタウロスには、若者や乙女が生け贄として捧げられてきたが、英雄テセウスがアリアドネーの糸玉を持って、迷宮の奥深くへと踏み込み怪物を退治。糸をたどることで無事に脱出を果たしたという。
その神話の舞台となったクノッソス宮殿も、今は遺構を残すのみ。視界を遮る壁もなく、神秘のベールを剥がれたかのようだ。順路を示す看板も、説明板も一切ない、遺構の中をあてもなく、しばし彷徨する。と、牛の背に手を付き飛び越える若者や、イルカが群れ泳ぐ壁画が...。ミノア文明の確かな足跡を目の前にして「私は今、ギリシャ神話の世界に立っている!」という高揚感に突如として包まれる。 米国から観光に来た夫婦と少し言葉を交わしたほかには、誰と会うこともなく、時空の迷宮をゆっくり楽しみ、時計を見れば時刻はまだ昼に差し掛かったばかり。 さて、これからどうしよう。ガイドブックを開くと、「ゼウスが生まれたという伝説の洞窟」というのが目に付いた。ギリシャ神話の主神、全知全能なる神ゼウスが、このクレタ島で生まれていたとは!!これはぜひとも行ってみたい。
運良く通りかかったタクシーを止め、「ゼウスの洞窟に行きたい」と英語で伝えるが、反応はいまいち。「まあ乗れ」という手振りに不安を抱えたまま乗車すると、タクシーは近くの町の小さなカフェで止まった。店内に誘われ、席に座れという身振りでの指示に従う。 ドライバーは座ることなく、店の人と大きな声で挨拶し、そのまま外へ出て行った。訳が分からず、なんとも落ち着かない気分でドライバーの帰りを待つ。ようやくドライバーが若い女性を伴って戻って来た。
"Hello"
女性の明るい声のトーンに、思わずホッとする。その一言で、「ああ、英語を話せる人を連れてきてくれたんだな」とわかったからだ。そうなれば話は早い。価格交渉もすませたところで、ドライバーは菓子パンを3つ購入。1つはお礼を兼ねて彼女に、もう1つは私に、そして残った1つは彼の口の中へ。オレンジジュースも追加購入し、1本を私に手渡し、"Let's go"とばかりに手招きをする。楽しい遠足の始まりだ!
が...、1時間も走った頃に光景が一変する。雪が降り積もる一面の銀世界へと突入したのだ。その時に覚えた2つのギリシャ語は今もって忘れない。「クリオ(寒い)」そして「アスプロ(白)」だ。その2語だけで、ドライバーと心を通わせ、ついに「この先、ゼウスの洞窟」的な看板のある場所にたどり着いた。が、ドライバーの表情は険しい。 ドライバーが近くの民家を訪ねると、頭の先からつま先まで黒ずくめの老婆が現れた。真っ白の中に現れた黒い老婆はまるで「マクベス」に登場する魔女のようだ。魔女は後部座席を覗き込み、にたっと笑った(ように見えた)。魔女はドライバーと私を家に迎え入れ、黒いどろっとした液体を差し出した。 それは、マクベスの魔女が鍋でトカゲの足やフクロウの翼を煮込んだもの...ではもちろんなく、いわゆる"グリークコーヒー"だ。細かく挽いたコーヒー粉が沈むのを待って、上澄みをゆっくりとすする。ストーブが点いた部屋は暖かく、エスプレッソカップで手先も温まる。どうやら洞窟へ行く道は雪のため、通ることができないらしい。
別れ際、ドライバーがお婆さんにお金を渡すのを見て、慌てて払おうとすると、お婆さんは「いいのよ、この人は後であなたからたっぷりお金をもらうんだから」とでもいうように指をすり合わせる仕草をし、ヒッヒッと歯抜けの笑顔を見せた。
ギリシャでは未亡人は黒ずくめの服を着る習慣があるのだが、都市部で見かけることはあまりない。市街地に入ると、先ほどまでの銀世界がうそのように雪のかけらもなく、まるで夢を見たかのようだ。あの老婆は、本当はゼウス誕生の地の守人で、私は知らぬ間に迷宮に足を踏み入れていたのだろうか。
ベールに包まれてこその神話なのだから、これで良かったのかもしれない。神話の世界に思いを馳せつつ、迷宮たるクレタ島を脱出することにした。