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シベリア鉄道「幸せの時間」|翻訳者派遣会社が送るエッセイ 未知しるべ

シベリア鉄道「幸せの時間」

翻訳者派遣会社が送る、世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ

シベリア鉄道

未知を求めて世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ。第1回は私の旅のスタイルを決定付けた1990年のソ連、シベリア鉄道からです。

シベリア鉄道の朝は、時計の針を1時間戻すことから始まる。

1990年夏、横浜を出航。ソ連船籍のルーシ号でナホトカに入港すると、そこからは陸路でモスクワを目指す。夜を跨いでハバロフスク、シベリア鉄道の始発駅に到着。ロシア号に乗り込み、いよいよハバロフスクからバイカル湖のあるイルクーツクまで2泊3日、さらにイルクーツクからモスクワまで3泊4日の鉄道旅だ。

シベリア鉄道では、ちょうど1日につき1時間の時差が生じる。そこで時計の針を戻すのが朝の日課になるというわけだ。

「また1時間得したな」。といっても、その分だけ列車に乗っている時間が増えるだけで、特段"得する"こともない。日本に戻る時には、"清算"しなければならないこともわかっている。「戻らなければ、数時間を得したまま、人生を終えることも可能なはず」と思ってみたりもするが、それで寿命が延びるわけでもない。要するに、時刻は記号に過ぎず、時間は戻りはしないのだ。

そんなことをダラダラと思考するほどに、シベリア鉄道の"時間"はゆっくりだ。

「バイカル湖だ!」

誰かが叫び、静止していたかに思えた時間は、にわかに動き出した。窓に駆け寄る人、慌てて荷物を探ってカメラを取り出す人。ファインダーをのぞき(当時はまだデジカメはなかったので)、必死にシャッターを押す。だが、それも最初の5分だ。

1時間が過ぎても、1時間半が過ぎても、外はバイカル湖のままなのだから。

そんなシベリア鉄道で、時間の流れを実感する出来事があった。数日が経ったある日、「食堂車のパンがやわらかくなった」という伝令が、車両を回ってきた。食堂車で供されるパンは、日に日に硬くなってきていたが、どうやら新しいパンが積み込まれたらしいというのだ。

なにせ娯楽のない車内である。最大の楽しみは食べることであり、食堂車は社交の場でもある。そんなシベリア鉄道では、「パンがやわらかくなった」は、まさにビッグニュース。伝令が飛ぶ号外ものなのだ。

「これは、行かなければ」。

色めき立ち、こぞって食堂車に移動し、パンを頬張る。「やわらかいね」「昨日までとは全然違うね」。小声で言い、笑顔を交わす。ロシア語も英語も日本語も、そこには壁はなかった。

ただ「幸せの共有」というなんとも素敵な時間だけが、そこにあった。

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