Column

2018年7月

第八回: 米語に於けるノア・ウェブスターの功績

北米では当時学校教育もある程度普及していたため、各地で同じ教材が採用されたことは、アメリカ英語がイギリス英語のように、方言差を持たなくなった要因のひとつであるとも言われています(ただしアメリカの発音は大きく分けて東部、南部、西部で発音の特徴が異なっています。しかしイギリスのように、狭いエリアで時にお互いに通じないほどの方言差がある状況ではなく、広大な東部、広大な南部、広大な西部というそれぞれイギリス1国よりもはるかに広いエリアで比較的均質的な言葉が使われているため、一見アメリカには方言差がないように感じられます。イギリスでの階級方言のようなものはもちろんありません(第1回第3回参照)。

ウェブスターは教育現場以外でも新しい綴り字普及への努力を惜しまず、米国各地の印刷場を回り、「改正」した新しいスペリング(例:theatre → theater, centre → center)のリストを配布し、これで印刷してほしいと説得する活動もしていたそうです。

ただウェブスターの業績が大きく評価されたのは彼の死後(1843年)でした。1828年に出した前述の辞書は初版が2500部ほどしか売れず、ずいぶん借金も抱えたと言われています。綴字教本で印税が入っていたとは言え、後に改版を出すためにはやりくりに苦労があったそうです。しかし今ではその功績は大きく評価され、ウェブスターの辞書は単に「Webster's」と呼ばれています。

「アメリカ式の綴り」や「音節ごとに明確な音価を与える発音の仕方」の普及はウェブスターの業績がすべてではないかもしれませんが、少なくとも大きなきっかけとなっていることは確かです。これ以外にもアメリカ英語の意義についての主張は続きます。1789年には書籍『Dissertation on the English Language』を出し、自分たちの言語を持つことは自分たちの国を持つのと同じくらい意義があり、いつまでもイギリスを手本にする必要はないと説きました。アメリカ独自の進化を続けた結果、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語の枝分かれのように、いつの日か北米でもイギリス英語とは違う言語として発展していくのではないかとまで述べています。

今日までの歴史を見る限り、まだそこまでは至っていません。昔であればひとつの民族が二つに分かれ、その後一切の交流がなくなれば、お互いの言語は必ず別々の方向に変化していきました。ただ現代は交流がなくなるような時代ではないので、独自の言語として分岐していくかは不透明です。

ただウェブスターの時代にはそれを信じ、「言語にせよ政府にせよ、自分たち独自のものが持てるという事はこの上なく名誉なことだ」という信念でアメリカ語の辞書編纂を続けました。彼が最初の辞書『A Compendious Dictionary of the English Language』を出したのは1806年のこと。その後もアメリカの英語を整備し、イギリスとは一線を画すようにしなければならないという信念が消えることはなく、1828年出版の 『American Dictionary of the English Language』 は、その集大成だったといえます。

担当:翻訳事業部 伊藤